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三木陽子インタビュー「アートが人の生きる力になるためには、作り手と鑑賞者の精神における共同作業が必要」

〈Conduit(導管)〉

五感のうち、視覚と聴覚は客観的、嗅覚と味覚は主観的。そして、触覚はその両方の感覚を持ち得ている感覚であり、何かを触った時、同時に自分の内部も感じるという、まさに外部と内部、無意識と意識を結びつける、純粋で根源的な感覚です。〈Conduit(導管)〉は、作家自身の手で創作した陶のオブジェに、それらと相反する存在の工業製品を組み合わせ、壁面に張り巡らせることにより、身体の内部にある無意識の領域を喚起させるインスタレーションです。


―応募のきっかけを教えてください。

三木:長年の友人である作家が勧めてくれたことがきっかけです。それから募集要項を見て、テーマが自分に合っていること、発表の場が美術館であること、キューブという空間で自由に造作できて表現しやすいこと、審査員の方々、高額な賞金、年齢の制限がない、制作資金が出るなど全ての条件が揃っていると感じました。

―テーマ「身体のゆくえ」をどのように解釈しましたか。

三木:身体は、皮膚も内臓もその全てを用いて外部世界からの様々な刺激の記憶を刻み付けています。
そして人間にとって重要な感情、喜びや悲しみや恐怖や怒りなどは、言葉だけでは表しきれません。そこには感覚的なイメージの力が必要です。そのイメージを身体の記憶により再生することが出来ます。
無意識と外部世界を結びつける身体は命を宿し、そのゆくえは生であり、死であり、性であり、存在であり、そして創造力です。

―キューブと作品構想の関係についてお聞かせください。

三木:もともとインスタレーションが自分の表現方法なので、ある特定の空間で自分の作品表現を行い、そのスケールや雰囲気からインスピレーションを得て、イメージを膨らませ、構成し、異化させて空間全体を作品として形にしていきます。
今回のキューブが興味深いのは、空間と捉えるか、作品の一部として捉えるか様々な捉え方ができるということでした。私にとってキューブは作品構想の重要な要素です。

―数ある工業製品の中から「配管」を採用されたのはなぜですか。

三木:電車などで外の風景を見ている時や歩いている時に、この世にはさまざまな管があることに気付き、またそれは人間の体内にもあるもの(血管など)だと考え、それを自分の表現に取り入れることが出来るのではないかと思いました。“管”は外部と内部を繋ぎ、また生や死を運ぶイメージです。
陶で作品を作るとき内部を空洞にしなければならないこともあり、そのイメージへ自然に結びついたのかもしれません。

〈Before Dark〉2011年 なうふ現代 ©Hiroshi OHNO

―導管のところどころに手のオブジェが現われます。

三木:私はたくさんの手のオブジェを制作してきています。手にはさまざまなイメージを湧き起こす力があります。
私は無意識という概念を作品の軸にしていますので、顔のように個のイメージははっきり出ないのに、感情を表現できるというのも手を使う魅力の一つです。私は感情はとても重要で感情の揺れや動きが宇宙の深淵につながるきっかけでもあると考えています。
また、陶は触覚の芸術です。手は特に触覚との結びつきが深い身体の一部だと思います。
触覚は、何かを触ったとき同時に自分の内部も感じることが出来る、もっとも原始的で無意識の世界と結びついている感覚です。
それは、セクシャルな要素も含め、本能によって創造を行う際に、無意識の海へ誘ってくれます。
そのような思考の象徴として手を使います。

―作家として長いキャリアをお持ちですね。今回の入選、そして、キューブという空間での展示ということで、新しい試みはありますか。
三木:キャリアは長いですが、私が作家として(作品も含め)少しでも動きだせたと感じたのは今から15年程前40歳を前にした頃からです。
制作においては、過去に長く悶々とした時期も過ごしてきました。
私は今まで日本の公の美術館で自分の表現が十分に伝わるくらいの規模で発表する機会を得られていなかったので、一度はこの作品を美術館で発表したいという思いが前からあったのと、既発表作品を使用しても、キューブの中で再構成すれば可ということだったので、自分の中でもっとも重要でベストな作品で勝負したいと思い、私の一番の要となる配管を使った作品の展開で応募しました。
もちろん、この展示のための新しい要素は十分入れますが、私の思考の流れの延長線上での表現にはなりますので、それが新しい試みなのかと問われるとなんとも言えません。しかし私は常に与えられた場との関わりの中で、オーラのようなものがうまく放たれるかがその展示の良し悪しを決定するように感じています。それが上手くいけば私の展示は成功です。
展示のために細かくサイズなどを入れた図面も用意しますが、作品の配置などは非常に感覚的に作り上げます。
展示が上手くいくように、まず入り口の位置から考え(今回は入り口の位置も自分で決定する為)そしてその入り口から内に入った時に、どう感じるか、入った時にいずれかの方向を観た場合、それがどう映るかなどの距離感なども考えつつ、自分が鑑賞者になった状況を設定して、幾度もシュミレーションして構成していきます。今までの経験も全て含めてよりベストな展示になるように努めます。

―創作活動において大事にしていることはなんでしょうか。
三木:私がはじめて粘土に触れた頃から10年くらいは、なにかを表現したいというより、自意識の過剰さをもてあましており、ひたすら柱のような筒状の形態を作り、その表面をオートマティックな手法で増殖的な土の装飾によって覆い尽くすという、身体性の強い大きな作品ばかりを夢中で制作していました。
私は自分の内にプリミティブな感覚が強くあると感じていて、古代のデコラティブな壷や装飾品(何かわけがわからないけれど力のあるもの、おそろしいものと一体化していた頃のもの、精神と物質が結びついていた頃のもの)の魔術性に惹かれていました。1980年代のエモーショナルなアートシーンの影響も、もちろんあります。しかし、そのままそのような作品を作り続けることに行き詰まり、制作のスランプから脱出するのにずいぶん時間がかかりました。その為に私は当時自身の作品の軸になっていた自分の体質から生まれ出る要素(増殖、装飾的要素など)をすべて消そうと考えました。
今のこの白黒(私の作品は白も使います)のマット感は、より無機質な質感に近づける為のものです。
そして自分が惹かれているものやプリミティブな感覚を、今生きている時代のリアリティーと結合させたいと考え、日常を異化し、場をつくる表現にたどり着きました。私の表現の特色として、以前の作品のように生理的な混沌や生命感を直接的に見せる作品ではなく、現代のモノ(工業製品等)のイメージに何かしらの根源的な生命のイメージ(生き物等)を入れ込みます。そして陶芸ならではの焼く行為により、より一層その質感や存在を無機質な物質に変換していき、出来上がったものは、粘土の乾かない状態で作業場にごろごろしていた生々しい様子と全く違い、それなりにきれいで、安全なものに映ります。でも、一見そのように見えてもしばらく見ているとなにかじわじわと人に沁みていくような、そのような表現になるように努めています。

―過去作品について教えてください。
三木:これまでもホテルや住宅やそれぞれの空間のイメージに合わせていろいろな展示をしてきました。時系列でいうと、窓のあるホワイトキューブのギャラリーでは2007年に〈Kitchen〉というタイトルの展覧会をしました。「生と死が一体で、エネルギーが変換される場」をイメージする場所ということで、架空の台所を演出しました。空間の中央に大きな黒いテーブルを置き、その上に器や食器を積み重ね、棚にはガスコンロやまな板やカボチャ等を並べました。壁面にはタオル掛けやタイルのかけらや配管を張り巡らし、床にもペットとしての犬のオブジェを配置。衛生的なイメージが出るように白の陶オブジェを主体にして構成しました。でもそこに配置したタオル掛けもタオルを咥えた子供の頭部であったり、テーブルの上ではネズミが走り回る皿やケーキ、まな板の上は切り刻まれた人の手であったり、ペットも双頭をもつ異形の生き物だったりと不気味な空気感を孕ませながら、有機物と無機物を融合させた世界を表現しました。

〈Kitchen〉2007年 VOICE GALLERY psf/w ©Miho FUJIBA

2009年の京都の和空間のギャラリーでは「眠り」をテーマにした〈耳枕〉という作品をつくりました。和室に布団を敷いてそこに寝ている人がいるような、いないような、夢、不在感、無意識の世界を表現しました。
2010年の展覧会〈PET SHOP〉ではこれまで水道管などの管を生や死を与えるイメージとして作品に取り入れてきた流れもあり、私がペットショップでもっとも興味をひかれたペットボトルのウォーターノズル(水飲み器)をペットショップの象徴的な存在として、モチーフにしました。ペットは愛情の対象であり、家族でもある存在です。その生命が売買される場所―ペットショップは境界をテーマに表現している私にインスピレーションを与え、全てを人に委ねなければ存在できない生命を表現しました。
2011年〈Before Dark〉、2013年の〈公園〉では、生命の気配やざわめきや感触、その全てを包括する暗闇に向かう刻を表現しました。
このように、私は現在まで根底にある自分の世界観を元に様々なテーマで発表をしてきました。
私は現実の中にすでにあるけれども、気づかれないでいる何かを見つけ出し、探り出します。それは既にそこに存在し、想像力が勿論必要ではありますが、現実を見て、観察し、それによって生じた感情に表現を与えます。
自分だけの閉ざされた主観に基づく個人的な幻想の世界を表現するのが目的ではありません(そうならないように努めています)。
私たちが現実と言っているもの自体が真実なのかという疑問もあります。私が表現したいのはむしろそういう曖昧な現実の中にあるもの、現実の中に内在し、無意識の領域に連結している何か、それは未知の驚きを呼び起こす新たな現実です。人間は生々しい生死などそのすべてを包括する自然(無意識)をコントロールしたいと願い、矯正する作業を続けてきました。今もそれは続いています。私は今生きている現実を認識し、生活している日常からインスピレーションを得ることにより、自分の手で実体である“モノ”をつくり、さらにそれを使って“場”をつくることにより、先ほど述べたような無意識の領域に連結している未知なる何かを換起させることができるような作品を目指しています。

―1986年の第1回国際陶磁器展美濃 ’86で 入選されています。岐阜県の主催する大きな公募展、その記念すべき第1回目でに二つとも入選されました。
三木:とても光栄に思っています。特に一回目というのはいろんな意味で未知でフレッシュでとても気持ちが昂まります。コンペは落選もそれなりに経験してきていますので、今回の高い倍率での入選はとても嬉しく感じております。ご期待に添えるように頑張ります。

―来館者へのメッセージをお願いします。
三木:アートが人の生きる力になるためには、作り手と鑑賞者の精神における共同作業が必要だと思います。美術家が作品を他者へ繋ぐためには、その思考や体験や記憶を、それぞれの表現方法で誰かと共有することがとても重要であり、その感性の未知なる出会いはお互いにとって大きな刺激となると思います。
私はそのような出会いが世の中になにがしかの良き作用と効果をもたらすと考えています。
そしてそのような作品になるよう努めて制作しています。
わかりやすいものや噛み砕かれたものの提示が多い世の中ですが、それは一時的なもので真の意味で生きる力にはなりません。
作品にどこまでその思いや力を宿らせることができるかは、今の段階ではまだわかりませんが、そうなるように努力します。
ぜひ現場で観て感じ、ご自身の内にそれぞれの未知なる何かを持ち帰って頂ければ幸いです。

11月12日 メールインタビュー

記事:田中


陶で創られたオブジェと配管が組み合わされ、壁面に展開されます。整然とした無機質な様相のなかに現れる身体や生命の感覚。その空間で“未知なる何か”が喚起されることが期待されます。

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