一次審査講評

O JUN
選考をして思ったことを幾つか述べます。絵画、平面での応募が少なかったのはこのコンペの空間条件によるものと推察されますが、たとえば、絵を“描く身体”から、その絵を観る人の“見る身体”にリレーされることは画家にとっても鑑賞者にとっても愉しく深い体験です。「身体のゆくえ」は作品を仲立ちにして両者に架かって現れるものと思います。私としては、そこに届いている絵画表現もわずかではありますがあったと思いましたが、残らなかったのは少し残念でした。ともあれ、最終審査に進んだ作家のこれからの健闘を祈ります。こちらの予想を超える作品が生まれることを期待します。
また、展示空間が「丈六」というサイズの条件があるためか、それを意識した立体やインスタレーション形式の作品を構想したものが多くありました。それに伴いマケットを作った人もかなりいましたが、空間や作品を単に縮尺しただけのものがほとんどで、かえってスケールや魅力を損ねているように思いました。身もふたもない“巨人の視点”ではない、想像力をかき立てるようなマケットを試みてもいいのでは。今回審査が様々な表現領域の方々によって行われましたが、作品もまたジャンルにとらわれず、いろいろな場処からの思考や豊かな表現行為が試されていることの証となるようなコンペになることを願っています。
十一代 大樋長左衞門(年雄)
800点近い応募があったことに驚きました。それぞれの作品に、真剣に向き合わせていただいたつもりであります。
プレゼンテーションについて、高齢の出品者は、スケッチなどが手書きでされているものも多い。一見、アナログで古い表現方法に思われがちですが、逆にシンプルで明快なものもありました。現役の学生や若い出品者においてはPCを用いたプロポーサルが多い。一見、わかりやすく感じますが、コンセプトの弱い表現のものが多々見受けられました。
コンセプトについては、題名と表現が一致していない。説明が長すぎて本意が伝わらない。簡潔明瞭な表現からは意味の深さを逆に感じやすい。
総論としては、大半の作品からはコンセプトと表現にズレを感じました。しかし、優れた企画には強いメッセージを予感することもできました。テーマ「身体のゆくえ」をいかに捉えているのか? が伝わるものに、我々は目を向けたのではないかと思っております。
世界中が現代アートの洗礼を受ける中で、様々な人種と地域性から生まれてきた異文化が、同一化されていくのかもしれません。
あくまで私見ではありますが、作品から発せられるメッセージが、何かを語りかけてきた時、それに同期して深く考えさせられるのです。貴方は何処にいて、何を観ているのか? もちろん、素材も技術も大切です。それがイメージでありコンセプトともなります。現代アート、伝統工芸、すでにジャンルではないのです。
静かに座して、自らの存在を考える。外面から自分を見れば体内までもが見え、内面からは限りの無い視界が体を通じて外に向かっているはずです。
「天地人」「時間と空間」「神と人」「地球と宇宙」「生と死」―太古からの人の永遠のテーマは、不変です。短い言葉に秘められた真意は劣化しないのです。人に思考の自由を与えながら深く脳裏に刻まれていく、風水、神道、侘び寂び、俳句、茶道……、それらに共通する精神性は日本独自のものです。
この公募展は、新たな才能の発掘と育成を目的にしています。残念ながら選外となった方々には、更なるチャンスとなれば幸いです。そして、入選作品は実際にどのような表現となるのか? どのようなメッセージが聞こえてくるのか! 今から楽しみにしております。
高橋 源一郎
詩や小説の審査はずいぶんやらせていただいた。だが、美術(と限定できない、もっと広がりのある空間を表現する)作品の審査は初めてで、とまどい、驚き、そして、とても新鮮な衝撃を受けた。まずは、応募作品の多さ。その多様さ。さらに、作品を審査するプロセス自体に。最終的には、4.8m×4.8m×3.6mの空間を占めることになる作品だが、それはまだ、現実には存在していない。最初の審査は提出された「設計図」だけで行われる。文学の審査では、もちろんそんなことはありえない。「美術」の審査では、審査員もまた、その作品の制作に加わらなければならない。しかも、800近くも作品(のようなもの)があるというのに! 正直なところ、楽しみよりも不安な気持ちの方を多く抱えて始めた審査だったが、進むうちに、どんどん楽しくなってきた。まるで、自分が、その設計図の作者の共作者になったみたいに。というか、共犯者になったみたいに。
ぼくはふだんから、小説をほんとうに楽しみたかったら、まず自分で書いてみることだ、といっている。読むためには、書くのが実はいちばんの近道なのだ。気がついたら、いままで、純粋な観客以外にはなったことがなかった「美術」という場所で、それを「つくる」という秘密に接近させてもらっていたのだ。こんな楽しいことはありません。最高です。たいへんだけど。
田中 泯
「身体のゆくえ」という如何様にでも処理できそうな言葉が主催者から世界に投げ出されてしまった。歴史は常にカラダのゆくえを整理し始末してきた筈だ。僕なんざお蔭で今だに行方不明だ。師・土方巽は「時代に添寝するようなオドリは要らないヨ!」と言っていた、いや逆だったかも知れない。
ユクエという時と場所、カラダという現実と嘘。カラダは見せない物事、見えない事態、語られない言葉、現わせない言動、飛び出さない衝動に満ちている。他人はどうか知らないが、僕はカラダとともに育ってきた子供だ。大人はまだない。……等々。世迷い事を考え、表と裏をくっつけ、考える。
八百もの応募者の、あまり野望を感じなかったのが残念だが、計画・企画・希望・夢を読み見する僕が、分かりたくない事がある、どうして歴史に残る物や事を作ろうとするのだろう。不在や不明にそそぐ愛こそが表現の基本だと思うのだけれど。
中原 浩大
「身体」ではなく、「身体のゆくえ」なのであって、大切なのは「ゆくえ」についての回答だろう。(ちなみに審査を依頼された時点で既にテーマは決定していたので、この解釈は私見だが。)
だから、応募書類に目を通した段階でまず私が判断に迷ったのは、「ゆくえ」についてはよくある話だけれど、いわゆるオーセンティックなクオリティを予想させるプランの位置づけだった。これらは一次審査会場での選考プロセスの初期段階ではかなりセレクトされていたが、選考が進むにつれて姿を消していった。私自身もこの機会だからこそ取り上げてみたいと思ったプランを優先したかったので、この結果には納得している。
その一方で、人間の死や終末の現実について取り上げようとする内容のものをプッシュしきれなかったことは後悔している。現場に向かい合う立場からストレートにアプローチしようとするもの、抽象化することのリアリティをつかもうとするものなど、いくつか興味深い内容があった。
一次審査の結果について高慢さを怖れずに言うとすれば、角が丸くなってしまったというのが率直な感想だ。最終的には私の感想が見事に裏切られて、お前にこれがわかるかとばかりにオルタナティブなクオリティが突きつけられる展示となってくれると期待している。
三輪 眞弘
「自分が高く評価したプランの少なからずが選ばれた。しかしすべてではなく、結果的に選ばれなかった秀逸なプランもあった」というのが第一次審査を終えた今の感想である。おそらくこれは他の審査員も同様だろう。しかし、審査を終えてもぼくの緊張感は変わらない。選ばれたプランが本当に期待したものを見せてくれるのか、自分が評価しなかったプランがその予想を裏切ってくれるのか。ぼくにとっては、これから実現される作品の「質」や「わかりやすさ」ということより、それらが未来の「芸術」を根本から再定義するヒントとなるものなのかが最大の関心事なのである。つまり、ぼくの「評価」とは作品の出来/不出来を判定することではない。そうではなく、無数の提案の中から血眼になってその新しいヒントを探し出し、占う作業に他ならない。今まで「芸術」が人間にとってかけがえのないものだったとしても、人工知能が絵を描き始めたこの時代に、これからもそうであり続けるのかは決して自明なことではないのだから。
鷲田 清一
800点ほどの作品プランの審査は、一つ一つ、文章から、ラフスケッチから、立体的な仕上がりを想像しなければならないので、アタマがぐんぐん熱を帯びて爆発しそうでした。さすがにこれだけの数の作品プランとなると、ああこれかという既視感をともなうもの、あまりにおかしくてしばらく笑いが止まらないものから、アタマではかろうじてわかっても実際にこの空間の中に身を置けばどんな感覚が発生するのか、想像もつかないようなものまで、中身はまことに多彩でした。 《身体のゆくえ》を、すこし距離をおいて批評的・対象的に捉えようとする作品が多かったように思いますが、与えられたキューブの空間そのものを、じぶんでもよくわからない未来の身体ないしは身体感覚として、不可解なままに表現する作品がもっとあるかと想像していました。
身体をもつということ、身体であるということの悲痛、そのひりひりするような痛みがそのまま、見る者を巻き込んでしまうような空間の呈示として。べたーっと貼りついてくる、ちりちり刺してくる、あるいはふわっと、あるいはぎゅっと包まれて窒息してしまいそうな、そういうちょっと薄気味わるいほどの空間にも、このあとの実作で出会えるのを楽しみにしています。