二次審査講評

O JUN
キューブ(箱)のゆくえは
個々の作品を観てそれぞれに思うことと、このコンペの条件であるキューブの設定をどう引き受けて、あるいはどう引き受けないで作品をつくっているかということが重なり見えてくるという、これまで前例の無い特異な展覧会になったと思う。キューブの中に入ってしまうとキューブを忘れることが出来て中のモノや設えを楽しむことができるけれど、外に出るとキューブが置かれているフロア全体が一望でき、しかしその眺めは決して楽しくはない。箱の中(美術館)にまた箱があるじゃないか! キューブの点在の仕方、そのためのレイアウトとコンストラクションを眺めるもう一つの眼が必要か。それぞれの作家たちはこのことは気にしているのだろうか。ここにある全ての作品は、いずれも誰かの躰のどこかにどのようにか触れている。寝言なのかそうでないのか? この臨床実験は笑いながら尾根を歩くようで油断がならない。屋外に持ち出された箱は、その行為だけで風光を獲得し、更に実寸を見誤らせる錯視もこちらの身体に起こさせ痛快だ。どれも手応えを感じた。そう、「身体のゆくえ」を見ることはできた。なので次は「箱のゆくえ」を見せてくれ。空っぽの箱(躰)でもいいからその佇まいを見せてくれ。
十一代 大樋長左衞門(年雄)
再考させられたアートの概念
いま、我々のクラウド化したネット社会によって、感情を伝える言葉の技術だけが巧みになり、人の身体言語が失われつつある。昔ほど泣かなくなった人、笑わなくなった人、感情を内に秘めるその姿は、時に危うい病的な現象を引起こしている。
「身体のゆくえ」、このテーマの捉え方は自由なはずだった。しかし、取り残された感情、怒り、哀れみなどを表現する作品が多かったことは特徴的であった。喜びや楽しみが希薄となり、我々は何かに憂いているのかもしれない。
コンセプショナルには、人の脳と身体との不可思議な関係、人と人の感覚を繋ぐことから新たなコトが生まれる可能性、生死を問うことからの命の尊厳、多くはそんなメッセージ性の強いものだった。
また、産業廃棄物、自然の恵みである木の存在、マンメイドや古来から必要としてきた素材を問い直す作品からも好印象をもった。私はほとんどの作品に同期し、深く考えさせられた。次回の展覧会を開催するころには、人の喜びや楽しみが多く表現される社会となっていることを願っている。
高橋 源一郎
議論の果てに
どんな選考会でも、議論が激しくなるほど楽しい。みんなの意見がまとまらないほど嬉しくなる。今回は特にそうだった。賞の一回目、対象は美術、話し始め、考え始めると、きりがない、終わりがない。その「終わりのない」白熱した議論を産んだ、素晴らしい作品と作者たちに感謝したい。大賞の1作と審査員賞の7作、ほとんど差はなかったと思う。もし、大賞の「cranky wordy things」と他の作品とに違いがあるとするなら、この作品には、わたしたちの無意識に潜む禍々しいものへの視線があったような気がする。わたしたちが作品を見る、のではなく、わたしたちが作品に見られている。そんな作品であるようにわたしには思えた。また、わたしが審査員賞に推した「THE MAUSOLEUM -大霊廟-」は楽器であるのに、なぜかわたしには原子炉に見えた。そこにも、やはり不穏なものがあるようにわたしは感じた。そんな作品が生まれた理由について考えること、それがわたしたち審査員や鑑賞者に与えられた責務なのかもしれない。
田中 泯
へい!キューブ
審査に関わって、現在何を感じ思っているかを語ることはムズカシイ、だから意見の市場の一例として話してみよう。僕の予想以上に、募集に応じた多数の人々の多数の思いや考えに接して自分の脳内の言語達が乱運動を始めた。混乱よりは喧騒という感覚か、面白い! と思った。審査をしながらの不審も許す僕自身、時空のどこら辺で僕が今暮らしているかという表現、評価が定まるということに興味を断った事もあった。今思うから成立する人生、歴史の歩行のどこででもライブな作品性、ダンサーという生にとって決定は決意だ。カラダという個人の事実から発した因果に表現は停留し出発する、と思う。こんなグズな思いでも僕には面白い。型こそ違え僕達は皆カラダという箱壁の中に居る、居場所はそこにしかない、キューブという美術館に表現の未来は参集するのだろうか?
中原 浩大
「ゆくえの兆し」への期待
応募のためのプランニングから、昨年夏の一次審査を経て今回の展示の完成までの長丁場を悠然と前進し続けた方もいれば、時間の経過とともに起きる心の動きに抗うべきか身をまかせるべきか悩まれた方もいらしたように感じながら展示を拝見しました。お疲れ様でした。
私にとっての大賞選考の最後のキーワードは、やはり「ゆくえ」でした。もう少し詳しく言えば「ゆくえの兆し」、もう少し率直に言えば「ゆくえの兆しへの期待」です。実際のところ心を決めたのは、議論の終盤に「それは触ってしまっているからだよ」(触っているからだよだったかな)と田中泯さんから腕をぐっと掴まれた瞬間でした。(その瞬間まで、「私のことを考えてほしい」ではなく、「あなたの考えが聞きたい」と思っていたので。でも「あなたの考えが聞きたい」なんだけど、今でも。)
体が反応してしまう展示が一つだけありました。実は予想外の反応で、その事実をどう受け入れるかしばらく自問しました。その展示を個人賞とさせていただきました。
三輪 眞弘
覚めた「物の怪」
大賞の「cranky wordy things」も、審査員賞の「移動する主体(カタツムリ)」も、それぞれが、今回のテーマである「身体」に対して、きわめて特異な形で切り込んだ作品だった。どちらの作品も少しだけ「ものが動く」ものであり、しかも「タネも仕掛けも」よく見ればすぐ分かるようなものであるというのも共通点である。同時に、ただそれだけのことで、これほど不思議な「何か」を感じさせることができるというのは、ぼくにとっての発見でもあった。
両作品においてそれは、不気味な何かの気配のようであり、ぼくに「物の怪」という言葉を思い出させたものの、決してそれらは呪術的な意匠を凝らしたものではない。むしろ正反対とも言える、クリーンなCUBEの中で起きた、日常化したテクノロジーによる「覚めた」体験なのである。そして、それこそが、作品プランの段階では想像もできなかった、現実空間の中に置かれた作品の力なのであり、現代を生きるアーティストからの、この芸術祭への応答だったと思う。
鷲田 清一
身体は世界をつくる生地
「在る」ということは、見えるということ、聞こえるということ、匂うということ。つまりは知られ、感じられているということ。その意味で、世界は身体という生地でできています。だけど、その生地である身体のごくわずかをしか、わたしたちは知りません。身体はわたしたちにとって深い謎でもあります。
世界はどうしてこんなふうであるのか、それをわたしたちは、身体に射す影をとおしてしか摑めません。そこにはもちろん歴史の昏(くら)い影も射しています。出品者たちはそういう影をたよりに、それぞれに独自の感覚で、世界の今を、そしてそのゆくえを察知しようとしています。最終的に選ばれた作品も、物質としての身体に執拗に向きあうもの、おのれの身体感覚を掘り下げるもの、身体の記憶を、いのちの触感を、他の生きものとの連続を探るもの、身体を組み立てている無言の制度を暴くもの……と、現代の身体状況と格闘するものばかりです。
アートとは、身体という、世界のこの生地に仕込まれるふくらし粉のようなもの。それがこのように多様にあるかぎり、世界はまだ大丈夫だと思いました。