アーティスト
一次審査講評
遠藤 利克
選考作業を重ねていく過程で、応募者の意図への理解が進み、それなりの公正な選考はできたのではないかと考えています。
選考の過程でみえてきたのは、書類選考という方法の限界性です。その限界性自体は、マケットがあったとしても変わらない種類のものです。限界と感じられる最重要事項は、実際に作品が完成した時の作品としての作品度というか、それぞれの作品がもたらす感動の質のようなものを、どうしても測りかねるということです。私は、プランと実作のあいだの試行錯誤の中に、作品制作に関わる一番重要な要素、あるいは秘密が潜んでいると考えます。しかし、プラン提出による公募制という方法においては、視野に限界が生じざるを得ないことも確かです。とはいえ、選考方法にさらなる工夫、さらなる改良を望みたいところではあります。
川口 隆夫
子どもの頃僕は、この世界が今しがた一瞬にして出現した、というオブセッションにとらわれていた。空も山も川も地層も化石も、複雑な社会も人間関係も、自分の記憶さえも、あらゆるものがプロセスなしに一瞬のうちに生成されてしまった…?
そんな妄想は別にして、今回のArt Award IN THE CUBE 2020 では時空の広がりを一気に一点に凝縮したような、あるいは一刀両断にして切り出してみせる作品コンセプトがいくつかあり、その鮮やかさに想像力を刺激された。
また一方で、いくつかのプロセスを経て記憶を書き留めよう、あるいは創り出そうというものも、少なからずあったように思う。複数の視点から言葉や動き、風景を重ねつなぎ合わせて自分たちの物語を自分たち自身の手で紡ぎだすという提案は僕にとってとても新鮮だった。私たちの知らないところで記憶、記録、歴史が消され書き換えられようとしていることへの抵抗であるのかもしれない。
篠原 資明
芸術の本質は、新しみつつ振りかえることにある。その場合、力点は新しむことにある。ただ、「記憶のゆくえ」をテーマとする今回の展覧会では、どのような過去を振りかえるかを考慮せざるをえない。したがって、どのような過去を、どのように新しく振りかえるかが、課題となる。
各企画書が振りかえろうとする過去は、生命の過去から神話的な過去、家族の過去から個人的な過去にいたるまで、さまざまであった。ただ、日常的になじんできた過去もまた、振りかえりの対象となるだろうし、使われなくなった素材も、振りかえりの対象となるだろう。いにしえの芸術作品や、伝統的技法も、同様である。このようにさまざまな過去に対して、どれだけの新しみ方を提案できるかが、審査に当たってのポイントとなった。幸か不幸か、700点を超える応募の中から、18点を選ぶのは、ワタシの場合、比較的容易であった。その分、仕上がりの展示が、大いに期待されるところである。
高嶺 格
3m60cmというサイズ規定について。大き過ぎも小さ過ぎもなく、人間の身体スケールおよび箱の製作費用に鑑みて割り出した妥当なサイズであると思う。多くの経験を持つ作家は、このサイズを念頭に「空間の全体を満たす」形でプランを考案した。「インスタレーション能力」はここで求められていることでもあり、選ばれたプランの多くは空間全体をうまく使っている。しかし私が今回審査するに当たって最も煩悶したのは、その「器用さ」をどう評価するかについてである。そもそも物理的な空間が必要ない、またはこのサイズには到底収まりきらないプランがある。「アイデアのスケール」が、設定された「空間のスケール」にそぐわないと思えるケースについて、この場でどう評価するか?個人的には、作品がこの箱から大きくはみ出し、ついには無化されるといった想像を掻き立てるプランをいくつか選んだ。サイズを規定する意義が、まさにそこに現れているように感じたからである。
福岡 伸一
物質としての生命体は、絶えず分解と合成を繰り返す危ういバランスー動的平衡ーの上にある。そんな中にあってどうして記憶は”保持”され続けるのだろう。それは、記憶が物質レベルにあるのではなく、物質と物質、あるいは細胞と細胞の関係性のレベルに存在するからだ。しかし、その関係性もまた、相補的な結びつきを維持しつつ、常に更新されていく。つまり、記憶が”保持”されていると感じるのは幻想でしかなく、記憶はいつもたった今作り直されているといってよい。鮮やかな記憶とは、自分が繰り返し呼び出し、彫像し、強化している自己愛的回路の変形といえる。そんな不確かな記憶のゆくえを、流れゆくもの、移ろうもの、揺れるもの、それでいて、ある種の幾何学的な秩序を示し、動的なさざ波を引き起こし、ときに美しくさえ見えるものとして具体化できた表現。そんな作品に出会えればうれしい。そう願って審査に臨んだ。
藤森 照信
街を歩いていると、道路を掘り返したり電信柱の上のほうに何か取り付けたりしている工事現場に出くわす。そして思う。もしこのシーンが美術館にあってインスタレーションと名付けられていたら、きっと私はそれを作品として鑑賞するだろうと。 街の中の解体時、工作的なシーンでなくとも、たとえばありふれた一本の樹を林の中から伐って、美術館の四角な箱の中に立てたら、きっと私はそれをシュールレアリスムの作品として鑑賞する。 キューブの中にあればすべては優れた作品になる可能性を持つーそう思いながら審査し、目で見てゴロっとして分かりやすい”石斧”と、その反対に体感でしか分からない”カタツムリ”の二つを実物で見て感じたい、と思った。 立体物を審査するとき、マケットがあれば理解しやすいが、現実的ではないのだろうか。
村瀬 恭子
700点をも超える応募プランに目を通すにつれ記憶の波に溺れそうだった。海底に沈み込みもう何も見えない、と幾度も力尽きそうになった。今では私自身がゆくえ知れずの彷徨い人になってしまったようだ。どのプランも決して明確にそれを手に掴んではいないと強く感じる、「記憶」というものは、触れたと思ったら途端に手をすり抜けて「ゆくえ」を眩ます生き物なのだろう。お陰で私たちはその幻のような瞬間をどうにか留めようと創作の冒険を続けることになる。予想を上回る数の魅力的な平面プランと出会えた事も幸福でした。絵画は、それに対してうってつけのメディアであると信じているが実見せずにその現場を想うことはとても難しい。あらゆる表現においてコンセプトとプランでなにが分かるの!?とあなたも私も考えたりするけれど、もはや信頼と愛情と敬意をもって実際にキューブの中に立ち現れる作品をとても心待ちにしています。